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2014年07月08日

部分と全体 その2

この前、癖の修正について書いた。本当にアドバイスに忠実にその
修正に取り組んだと仮定して、なぜ自分が(原因が)見えないのか。
それをその人の全体から推論するというものだった。

そして「多分部分しか見ていなくて、動きの中での全体の自分が見
られないのだろう」と思った。しかし人間は、そもそも鏡を見る時大抵
は部分しか見ないもの。動きを見られない人は、実は意外と多いの
かもしれない。車を走らせながら、そもそも人間は自分というものを
なかなか見られないものなんだろうなぁと考えていた。

自分が見られたら、自分のことをもっと嫌いになるかもしれない。そ
の意味で人間は、自らを守るために自分を曖昧に見るようになった
のかもしれない。他人を判別するのが曖昧な記憶によってなされる
という記事もどこかにあった。「曖昧」って意味深い。

「自分は存在しないのではないか」と思う自分こそ存在の証拠だとす
る「我思う、ゆえに我あり」ではないが、自分を確認すべく鏡を見ても
部分しか見られなかったら、それは「我あり」と言えるのだろうか。

ま、そんなことをぼんやり考えながら車を運転していたのだが、道中
僕の後ろに2回女性が付いた。女性の運転の傾向は大きく2通りあ
って、ぴったりくっついて走る人とマイペースで走る人。

今回は2人共ぴったり派だった。男じゃないから急かしているわけで
もない。顔をハンドルにくっつけるようにして必死に運転している様
子。2人とも若かったが、きみまろ調に言えば「あれから、ン10年」
経たない内に絶対レジで押すようにくっついてくるおばさんだな、な
んて思いながら見ていた。あれっ、話が変わっちゃった。


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Posted by ラテルネ瀧根 at 06:34│Comments(0)
 
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