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2012年09月22日
宮城の三日間
今朝3時頃、高山に帰って来た。
「森・きずな」代表のM君とO君は5時過ぎに名古屋に着いたとの事。
お疲れさまでした。今日一日、ゆっくり休んで下さい。
後にした被災現場は家があっても灯りがなく、どこまでも暗かった。
家があっても、主もそれを待つ家族もいない。
そして良く見ると破損部分は応急措置がしてあるだけ。
希に灯りが点いている家もあったが、総じてその灯りは暗かった。
多分、ひっそりと暮らしてみえるのだろう。
その暮らし向きがうかがい知れるようだった。
それ以外は荒涼とした空地が拡がる。
そんな中にあった、唯一明るく輝く建築物・・・がれき処理プラントだった。
そのミスマッチな明るさが、
周りの「重さ」をより強調しているようで涙を誘った。
今回「森・きずな」のグループで宮城県を訪れたのは、
直接的には地元の中学で開催されるバザー用に寄付戴いた金品を
名古屋から送っている野菜を有効活用して頂いている
「いちごっこ」というボランティア団体に届けるというもの。
その中で、お世話になっている関係者にお会いして
いろいろお話を聴いたり今後の相談をするというものだった。
お会いしてみると、どこでも中心になっているのは熱い人。
改めて政治や行政に有効な政策やスピードがないのに腹がたつが
その人たちのエネルギーに触れ、こちらまで清々しく充電されるような
そんな気がする充実の3日間だった。
「森・きずな」代表のM君とO君は5時過ぎに名古屋に着いたとの事。
お疲れさまでした。今日一日、ゆっくり休んで下さい。
後にした被災現場は家があっても灯りがなく、どこまでも暗かった。
家があっても、主もそれを待つ家族もいない。
そして良く見ると破損部分は応急措置がしてあるだけ。
希に灯りが点いている家もあったが、総じてその灯りは暗かった。
多分、ひっそりと暮らしてみえるのだろう。
その暮らし向きがうかがい知れるようだった。
それ以外は荒涼とした空地が拡がる。
そんな中にあった、唯一明るく輝く建築物・・・がれき処理プラントだった。
そのミスマッチな明るさが、
周りの「重さ」をより強調しているようで涙を誘った。
今回「森・きずな」のグループで宮城県を訪れたのは、
直接的には地元の中学で開催されるバザー用に寄付戴いた金品を
名古屋から送っている野菜を有効活用して頂いている
「いちごっこ」というボランティア団体に届けるというもの。
その中で、お世話になっている関係者にお会いして
いろいろお話を聴いたり今後の相談をするというものだった。
お会いしてみると、どこでも中心になっているのは熱い人。
改めて政治や行政に有効な政策やスピードがないのに腹がたつが
その人たちのエネルギーに触れ、こちらまで清々しく充電されるような
そんな気がする充実の3日間だった。
2012年09月21日
三陸から仙台へ
今回の目的の1つは「森・きずな」の協力者への挨拶回り。
昨日は市場の常務と集荷でお世話になっている郵便局の労組を訪問。
その足で、亡くなった郵便局員60数人の慰霊碑にも連れていってもらった。
夜は仙台の駅前で懇親会。
昨日一番辛かったのは、逃げ遅れて多くが亡くなった大川小学校。まだ4人が見つかっていないそうだ。
昨日は市場の常務と集荷でお世話になっている郵便局の労組を訪問。
その足で、亡くなった郵便局員60数人の慰霊碑にも連れていってもらった。
夜は仙台の駅前で懇親会。
昨日一番辛かったのは、逃げ遅れて多くが亡くなった大川小学校。まだ4人が見つかっていないそうだ。
2012年09月20日
仙台は晴れ!
27日に開かれる中学校のバザーに出品すべく、昨夜22時頃高山を出発。
それは被災地・仙台にある中学校の話で、7時過ぎ、無事に高速を下りた。
と言っても名古屋の仲間が迎えに来てくれた車に乗っていただけの話だし、出品する荷物も名古屋で集めてくれたもの。
仲間が苦労してくれた善意に便乗しただけの話だ。
これから三陸の状況を見に行き、夜は現地の人たちとの交流会だ。
それは被災地・仙台にある中学校の話で、7時過ぎ、無事に高速を下りた。
と言っても名古屋の仲間が迎えに来てくれた車に乗っていただけの話だし、出品する荷物も名古屋で集めてくれたもの。
仲間が苦労してくれた善意に便乗しただけの話だ。
これから三陸の状況を見に行き、夜は現地の人たちとの交流会だ。
2012年04月11日
支援活動への協力を
震災から、昨日で丁度1年と1ヶ月経った。
岩手・宮古市のボランティア仲間からはずっと連絡をもらっているが、
自分自身はその後なかなか応援にも行けていない。
少なくとも「忘れない」という気持ちだけは持ち続けようと思っているが
そんな中、新しい形の支援活動をを知った。
それは京都大学の学生が始めた、
廃棄野菜を市場から譲り受けて被災地のNPO法人に送る取り組みで、
既に仮設住宅に配布されたりしている。
それを知った名古屋の友人が具体的に協力し始めた。
週3回郵送すると一ヶ月39000円、年間468000円掛かるという。
(郵便局会社とも交渉したが、どうしようもないとの事)
そこで、1人3000円会費で会員を200人募るというものだった。
食べられるが捨てられるものを「食品ロス」というらしいが、
何と日本のそれが、食用として出回る総量の一割になるとか。
日本の食料自給率が40%まで落ちてきたと言われる中、
今一度、そんな「裕福」を考える機会としてご協力頂ければありがたい。
会報でその都度現地の状況が伝えられるので
「忘れない」ことにも繋がる取り組みだと思う。
詳細を知りたい方、協力いただける方は
takine@topaz.ocn.ne.jp
もしくは090-5609-4207にご連絡いただきたい。
折り返し中日新聞の報道記事などの詳細や
振込先などを送らせていただきます。
岩手・宮古市のボランティア仲間からはずっと連絡をもらっているが、
自分自身はその後なかなか応援にも行けていない。
少なくとも「忘れない」という気持ちだけは持ち続けようと思っているが
そんな中、新しい形の支援活動をを知った。
それは京都大学の学生が始めた、
廃棄野菜を市場から譲り受けて被災地のNPO法人に送る取り組みで、
既に仮設住宅に配布されたりしている。
それを知った名古屋の友人が具体的に協力し始めた。
週3回郵送すると一ヶ月39000円、年間468000円掛かるという。
(郵便局会社とも交渉したが、どうしようもないとの事)
そこで、1人3000円会費で会員を200人募るというものだった。
食べられるが捨てられるものを「食品ロス」というらしいが、
何と日本のそれが、食用として出回る総量の一割になるとか。
日本の食料自給率が40%まで落ちてきたと言われる中、
今一度、そんな「裕福」を考える機会としてご協力頂ければありがたい。
会報でその都度現地の状況が伝えられるので
「忘れない」ことにも繋がる取り組みだと思う。
詳細を知りたい方、協力いただける方は
takine@topaz.ocn.ne.jp
もしくは090-5609-4207にご連絡いただきたい。
折り返し中日新聞の報道記事などの詳細や
振込先などを送らせていただきます。
2012年03月12日
3/11
昨日は全国各地、そして諸外国においても様々な想いを込めて
祈りが捧げられていた。そして歌が歌われていた。
行方不明者がまだ3155人お見えだとのこと。
どんな悲しみや苦しみが渦巻いていることか。
とりわけ我が子を失った親御さんに何の希望があるだろう。
被災者の方の想いやそんな歌を聞く度、涙で霞んだ。
歌には人を励ましたり勇気づけたり、慰めてくれたり元気をくれたり・・・
たかだか3分程の時間の中にどうしてそんな力があるのだろうか。
いつか太田光が「どんなに頑張ってもスマップには敵わない」と
歌手の“強み”を書いていたのを思い出した。
僕が関わったボランティアセンターの軸はたまたまYMCAだ。
昨日、その活動の中心的な方が「復興の仕事のお手伝いが
メインでなく、一緒にお酒が飲みたいだけでいい。
○○さんに会いたいだけでいい」とFacebookに書いて下さった。
ボランティアじゃなく、地域との交流でいいんだ、とのことだが
何もできない、力のない自分がもどかしい一年だった。
その一年、あっという間だったのだろうか長かったのだろうか。
どうしたらいいのか、どうすべきか、という問題とは別のところで
時間の進み方がそれぞれ違っているのだろう。
以前お手伝いしたお宅に転がっていた14:46分で止まったままの
柱時計を思い出した。
「忘れないよ」昨日の僕にはそれしか無かった。
祈りが捧げられていた。そして歌が歌われていた。
行方不明者がまだ3155人お見えだとのこと。
どんな悲しみや苦しみが渦巻いていることか。
とりわけ我が子を失った親御さんに何の希望があるだろう。
被災者の方の想いやそんな歌を聞く度、涙で霞んだ。
歌には人を励ましたり勇気づけたり、慰めてくれたり元気をくれたり・・・
たかだか3分程の時間の中にどうしてそんな力があるのだろうか。
いつか太田光が「どんなに頑張ってもスマップには敵わない」と
歌手の“強み”を書いていたのを思い出した。
僕が関わったボランティアセンターの軸はたまたまYMCAだ。
昨日、その活動の中心的な方が「復興の仕事のお手伝いが
メインでなく、一緒にお酒が飲みたいだけでいい。
○○さんに会いたいだけでいい」とFacebookに書いて下さった。
ボランティアじゃなく、地域との交流でいいんだ、とのことだが
何もできない、力のない自分がもどかしい一年だった。
その一年、あっという間だったのだろうか長かったのだろうか。
どうしたらいいのか、どうすべきか、という問題とは別のところで
時間の進み方がそれぞれ違っているのだろう。
以前お手伝いしたお宅に転がっていた14:46分で止まったままの
柱時計を思い出した。
「忘れないよ」昨日の僕にはそれしか無かった。
2011年07月05日
パキスタン 中村 哲さん
パキスタンのキャラバンでは
医薬品を求める人が多いとブログに書いたが、
地元(パキスタン北西の辺地、現在はアフガニスタン)で
無償で医療活動をされている「ペシャワール会」の中村哲さんほど
尊敬されている医師はいないだろう。
僕はペシャワール会とご縁があって、
土石流に飲まれた村に衣料や義援金を取りまとめた事がある。
その村に口座を持っている人がいないため、集めた義援金を
たまたまパキスタンを訪問する某団体に託したのだが
残念ながら行方不明になってしまった。苦い思い出だ。
そんな関係もあって
来日された時に居酒屋でご一緒した事があるが、
ただただ民のためにある、そんな方だった。
現地の人々は「変化」や「進歩」を望まない。
そんな人々と目に見えない程度の流れを共にしたいという
「登山と虫が好き」な「小さなおじさん」であった。
アメリカによるタリバン政権打倒という「価値観の押し付け」
を批判されていたのを覚えている。
戦いに翻弄されながら灼熱の大地で命を守り続けている。
そんな中村さんを思う時
何故か灼熱の大地、岩山のクラックに作られた
パキスタン軍の秘密基地を思い出す。
医薬品を求める人が多いとブログに書いたが、
地元(パキスタン北西の辺地、現在はアフガニスタン)で
無償で医療活動をされている「ペシャワール会」の中村哲さんほど
尊敬されている医師はいないだろう。
僕はペシャワール会とご縁があって、
土石流に飲まれた村に衣料や義援金を取りまとめた事がある。
その村に口座を持っている人がいないため、集めた義援金を
たまたまパキスタンを訪問する某団体に託したのだが
残念ながら行方不明になってしまった。苦い思い出だ。
そんな関係もあって
来日された時に居酒屋でご一緒した事があるが、
ただただ民のためにある、そんな方だった。
現地の人々は「変化」や「進歩」を望まない。
そんな人々と目に見えない程度の流れを共にしたいという
「登山と虫が好き」な「小さなおじさん」であった。
アメリカによるタリバン政権打倒という「価値観の押し付け」
を批判されていたのを覚えている。
戦いに翻弄されながら灼熱の大地で命を守り続けている。
そんな中村さんを思う時
何故か灼熱の大地、岩山のクラックに作られた
パキスタン軍の秘密基地を思い出す。
2011年07月04日
パキスタン 遠藤京子さん
パキスタンのパイユというところで
ヒマラヤグリーンクラブの遠藤京子さん
(1974年マナスル日本女子隊・隊長)たちと植林をした事がある。
これは、登山隊がキャラバンをする都度
雇われたポーターが自らの食事のため木を伐採して薪にするため、
砂漠化が進んだ事への罪滅ぼしでもあった。
伐採を厳しく罰する法律があったものの、
伐採せずに鉈目を入れ、翌年には枯れ木になったのを
合法的に使い続けるという、
ポーターさんにはなかなか賢い知恵があった。
だから植林以外に緑は守れなかったのだ。
遠藤さんは今も精力的に同志を募って植林活動をされている。
我々が植えた苗木が根付き育っているとの報告を聞いた事はあるが
はたしてどんな緑になっているだろうか。
褐色の大地、僅か緑なすところに必ず人々が暮らしていて
そのたくましさに感動したものだ。
願わくば緑が増え、その分人々の暮らしが豊かになっているのを
祈るばかりである。
女性による世界初の8000m峰登頂者になった中世古直子さんは
今でも日本山岳会東海支部で積極的に山登りをされている。
ちょっと緑を入れてみました
ヒマラヤグリーンクラブの遠藤京子さん
(1974年マナスル日本女子隊・隊長)たちと植林をした事がある。
これは、登山隊がキャラバンをする都度
雇われたポーターが自らの食事のため木を伐採して薪にするため、
砂漠化が進んだ事への罪滅ぼしでもあった。
伐採を厳しく罰する法律があったものの、
伐採せずに鉈目を入れ、翌年には枯れ木になったのを
合法的に使い続けるという、
ポーターさんにはなかなか賢い知恵があった。
だから植林以外に緑は守れなかったのだ。
遠藤さんは今も精力的に同志を募って植林活動をされている。
我々が植えた苗木が根付き育っているとの報告を聞いた事はあるが
はたしてどんな緑になっているだろうか。
褐色の大地、僅か緑なすところに必ず人々が暮らしていて
そのたくましさに感動したものだ。
願わくば緑が増え、その分人々の暮らしが豊かになっているのを
祈るばかりである。
女性による世界初の8000m峰登頂者になった中世古直子さんは
今でも日本山岳会東海支部で積極的に山登りをされている。
ちょっと緑を入れてみました
2011年06月28日
ボランティアと山屋 その4
伝える事は本当に難しい。
過去からうまく伝承されてこなかった結果が
現在の、全国の山岳会の現実でもあるわけです。
そんなふうに現実を見れば過去の問題点も見えてくるけど、
じゃ、我々はしっかり伝えようと思ったところで
やっぱり難しい事に変わりない。
流れるのはたやすいけど
それを変えようとするのはいつも難しい。
何かやらねば。
常にそれが出発点。
震災との絡みでいえば
誰でも助け合おうという気持ちを持っている。
置かれている状況が違うから、それは夫々違いがあって当たり前。
そこを大事に
大切なのは夫々が何かできること、やれることをする事。
そしてやっぱり繋げる事。
そして、繋げる自分自身が
希望を持ち、夢を追いかけるという土俵を共にする事なのでしょう。
共に元気になる事が肝心だと思います。
「支援センター」も息長く、そして求めずやっていきたいと思います。
過去からうまく伝承されてこなかった結果が
現在の、全国の山岳会の現実でもあるわけです。
そんなふうに現実を見れば過去の問題点も見えてくるけど、
じゃ、我々はしっかり伝えようと思ったところで
やっぱり難しい事に変わりない。
流れるのはたやすいけど
それを変えようとするのはいつも難しい。
何かやらねば。
常にそれが出発点。
震災との絡みでいえば
誰でも助け合おうという気持ちを持っている。
置かれている状況が違うから、それは夫々違いがあって当たり前。
そこを大事に
大切なのは夫々が何かできること、やれることをする事。
そしてやっぱり繋げる事。
そして、繋げる自分自身が
希望を持ち、夢を追いかけるという土俵を共にする事なのでしょう。
共に元気になる事が肝心だと思います。
「支援センター」も息長く、そして求めずやっていきたいと思います。
2011年06月27日
ボランティアと山屋 その3
支援センターを立ち上げたものの
実行部隊たる全国の山岳会の実態は高齢化しています。
総体としてハイキング主体になりつつあり、
厳しい登山とかけ離れたものになってきていますから
足腰が立ちにくい。
岐阜を例に例えると
山岳会が20数団体集まって岐阜県山岳連盟を作っています。
でもその山岳会の中で厳しい登山をしているのは
限りなくゼロに近く、多くは求められないのが実情。
そんな事を考えると、
岩や雪を求めるアルパインクライミングを普及する事が
長い目で見た震災支援にも繋がるわけです。
そんな気持ちで、昨日は各務原で講習会を行いました。
大学生を含む25名ほどの参加がありました。

基本的な事が実は難しい。そこに本質が隠れているから。
それがなかなか分からないから、皆基本をおろそかにしやすい。
どうそれを伝えるかがまた難しいから困ったもんです。
それに大勢の中ではどうしても限界があります。
十人十色と言いますが、皆受け止めが違う。
相手が“何が分からないかが分かる”事を大事にしても
一人ひとりを全てフォローできるはずもなく、
獲得目標を一定のところに設定せざるを得ないのが講習会でもあります。
実行部隊たる全国の山岳会の実態は高齢化しています。
総体としてハイキング主体になりつつあり、
厳しい登山とかけ離れたものになってきていますから
足腰が立ちにくい。
岐阜を例に例えると
山岳会が20数団体集まって岐阜県山岳連盟を作っています。
でもその山岳会の中で厳しい登山をしているのは
限りなくゼロに近く、多くは求められないのが実情。
そんな事を考えると、
岩や雪を求めるアルパインクライミングを普及する事が
長い目で見た震災支援にも繋がるわけです。
そんな気持ちで、昨日は各務原で講習会を行いました。
大学生を含む25名ほどの参加がありました。
基本的な事が実は難しい。そこに本質が隠れているから。
それがなかなか分からないから、皆基本をおろそかにしやすい。
どうそれを伝えるかがまた難しいから困ったもんです。
それに大勢の中ではどうしても限界があります。
十人十色と言いますが、皆受け止めが違う。
相手が“何が分からないかが分かる”事を大事にしても
一人ひとりを全てフォローできるはずもなく、
獲得目標を一定のところに設定せざるを得ないのが講習会でもあります。
2011年06月26日
ボランティアと山屋 その2
東京都山岳連盟に加盟しているチーム84という組織がありますが
その代表がクライマーに呼びかけてボランティア活動を続けていて
多くの輪が広がっています。
私もクライマーの端くれとしてそれに加わり、
活動拠点の岩手県・宮古に行ってきました。
遠征出発前に余裕があればまた行くつもりですが、
そんな現場でよく出されるのが
「なぜ各県の山岳連盟やその上部組織の日本山岳協会が
組織的に取り組まないのか」という疑問。
皆、熱い連中ですからじれったくて仕方ないんですね。
残念ながら実行部隊足り得ないのがそういう組織なので
じゃ司令塔にならなきゃおかしいと思うのですが
大きな組織はなかなか動けない。
また動くとしたら試行錯誤しながら、という訳にはなかなかいかない。
だったら、と日本山岳協会の指導委員会に結集する
全国の山岳指導員を中心にした
「山岳指導者支援センター」を立ち上げました。
全国約2500人の公認指導者がその先頭に立とうという訳です。
「山屋を送る会」なんて名前にしたかったけど
大きい組織なので無難なものにしました。
写真はアッシニボイン(カナダ)北壁の夜明け
カナダのマッターホルンと言われています
その代表がクライマーに呼びかけてボランティア活動を続けていて
多くの輪が広がっています。
私もクライマーの端くれとしてそれに加わり、
活動拠点の岩手県・宮古に行ってきました。
遠征出発前に余裕があればまた行くつもりですが、
そんな現場でよく出されるのが
「なぜ各県の山岳連盟やその上部組織の日本山岳協会が
組織的に取り組まないのか」という疑問。
皆、熱い連中ですからじれったくて仕方ないんですね。
残念ながら実行部隊足り得ないのがそういう組織なので
じゃ司令塔にならなきゃおかしいと思うのですが
大きな組織はなかなか動けない。
また動くとしたら試行錯誤しながら、という訳にはなかなかいかない。
だったら、と日本山岳協会の指導委員会に結集する
全国の山岳指導員を中心にした
「山岳指導者支援センター」を立ち上げました。
全国約2500人の公認指導者がその先頭に立とうという訳です。
「山屋を送る会」なんて名前にしたかったけど
大きい組織なので無難なものにしました。
写真はアッシニボイン(カナダ)北壁の夜明け
カナダのマッターホルンと言われています
