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2013年06月16日
アンナあとがき チャレンジャー
遠征までの話し合った1年半、ぶつかったりすれちがったりして
家へ帰るのがいやになったり、時には声を荒げたりもした。
そんな意味で本当に難産の末の遠征だった。
もともと「山」なんて、余裕がなければやってられない世界。僕の子供に
重度の障害があったら、とか女房に理解がなかったらなどと思うと、
幸せな家庭環境や、行かせてもらった職場環境にただただ感謝するばかり。
考えて見ればそんな「幸せ」の中で、僕だけがいつやばい状況に陥るか
分からないという不確定要素をかかえている。
いつだったか息子が赤点を取ったとき、「しっかりせな、父さんぐれるぞ」
と茶化したら、「もうとっくにぐれとるが」と笑った息子や娘が、
さすがにそれ以上ぐれてもらっては困ると思ったのか、前を向いて
進んでくれている。そんな年令の頃、とても前を向けなかった自分が
今、そんな家族に支えられて極道をやっているのだから
家族にソッポを向かれた日には足を洗わざるを得ない。
それがイヤだからと言うわけでもないが、アンナプルナを振り返ったとき
見つめざるを得なかったのは、「待つ者」;女房そして子供の事だった。
石川隊長のもとで光栄にも登攀隊長を努めさせていただいたわけだが、
それは頼りなかった事にちがいない。そんな僕に皆、よくついてきてくれた。
トレーニングの段階から最後まで、皆頑張ってくれた事を生涯忘れない。
全てがすばらしい経験だった。いくつもの感動があった。
最後に見上げたアンナプルナの頂上は遠く、厳しかった。
そして脳裏に焼きついて離れない。そして
生きて帰って来る事が出来たからこそ、我々は又チャレンジャーになれる。
〈前を向いて進もう〉
家へ帰るのがいやになったり、時には声を荒げたりもした。
そんな意味で本当に難産の末の遠征だった。
もともと「山」なんて、余裕がなければやってられない世界。僕の子供に
重度の障害があったら、とか女房に理解がなかったらなどと思うと、
幸せな家庭環境や、行かせてもらった職場環境にただただ感謝するばかり。
考えて見ればそんな「幸せ」の中で、僕だけがいつやばい状況に陥るか
分からないという不確定要素をかかえている。
いつだったか息子が赤点を取ったとき、「しっかりせな、父さんぐれるぞ」
と茶化したら、「もうとっくにぐれとるが」と笑った息子や娘が、
さすがにそれ以上ぐれてもらっては困ると思ったのか、前を向いて
進んでくれている。そんな年令の頃、とても前を向けなかった自分が
今、そんな家族に支えられて極道をやっているのだから
家族にソッポを向かれた日には足を洗わざるを得ない。
それがイヤだからと言うわけでもないが、アンナプルナを振り返ったとき
見つめざるを得なかったのは、「待つ者」;女房そして子供の事だった。
石川隊長のもとで光栄にも登攀隊長を努めさせていただいたわけだが、
それは頼りなかった事にちがいない。そんな僕に皆、よくついてきてくれた。
トレーニングの段階から最後まで、皆頑張ってくれた事を生涯忘れない。
全てがすばらしい経験だった。いくつもの感動があった。
最後に見上げたアンナプルナの頂上は遠く、厳しかった。
そして脳裏に焼きついて離れない。そして
生きて帰って来る事が出来たからこそ、我々は又チャレンジャーになれる。
〈前を向いて進もう〉
2013年06月14日
アンナあとがき 問いかけ
女房に初めて反対された山だった。当時、結婚して22年。
初めて僕のやることに反対した彼女の本心はただ一つ、
自分のための「山」をやって欲しいという思いだった。
「来年の山のトレーニングになる」とか「岳連への恩返し」
「登攀隊長の経験は大事な勉強」、「もうあとに引けない」
だだっ子のように行く事を決めていた僕も、それは分かっていた。
立ちはだかるものを乗り越えてまで、なぜ人は困難を求めるのだろうか。
緊張感を持って、ただ高みを目指してジリジリ攀じる事ほど
集中できるものは無く、それは僕にとって至福の時でもある。
困難を求めそしてただ前に進む「本能」とはいったい何なのだろう。
男の闘争心だろうか、征服欲だろうか。確かに僕は格闘技が
大好きだし、征服欲だってあるのだろう。
そんな人間の「原点」の部分にクライミングというものが共鳴し、
おもしろいのかもしれない。だけど、ただおもしろいだけではない何か、
本質的なものがそこにはある。
思えばK2に登頂した時、僕は穏やかで感謝の気持ちで一杯だった。
そんな「素」の僕の中にこれまでで最も人間らしい自分を感じ、
一生懸命「生きる」事は人間らしくなる事なのだと思った。
そして渇望しているものがそこにあるような気がした。その意味で、
僕のクライミングの本質は「人間らしさ」を求めるものなのだろうか。
結局2000年のアンナ遠征も、その問いかけに答えを出せなかった。
女房はこう言った。「お父さんは不完全燃焼が続く限り、
パーフェクトなものを求めてまた山へ行くんじゃないの?」
〈ひっそりと咲くブルーポピー〉
初めて僕のやることに反対した彼女の本心はただ一つ、
自分のための「山」をやって欲しいという思いだった。
「来年の山のトレーニングになる」とか「岳連への恩返し」
「登攀隊長の経験は大事な勉強」、「もうあとに引けない」
だだっ子のように行く事を決めていた僕も、それは分かっていた。
立ちはだかるものを乗り越えてまで、なぜ人は困難を求めるのだろうか。
緊張感を持って、ただ高みを目指してジリジリ攀じる事ほど
集中できるものは無く、それは僕にとって至福の時でもある。
困難を求めそしてただ前に進む「本能」とはいったい何なのだろう。
男の闘争心だろうか、征服欲だろうか。確かに僕は格闘技が
大好きだし、征服欲だってあるのだろう。
そんな人間の「原点」の部分にクライミングというものが共鳴し、
おもしろいのかもしれない。だけど、ただおもしろいだけではない何か、
本質的なものがそこにはある。
思えばK2に登頂した時、僕は穏やかで感謝の気持ちで一杯だった。
そんな「素」の僕の中にこれまでで最も人間らしい自分を感じ、
一生懸命「生きる」事は人間らしくなる事なのだと思った。
そして渇望しているものがそこにあるような気がした。その意味で、
僕のクライミングの本質は「人間らしさ」を求めるものなのだろうか。
結局2000年のアンナ遠征も、その問いかけに答えを出せなかった。
女房はこう言った。「お父さんは不完全燃焼が続く限り、
パーフェクトなものを求めてまた山へ行くんじゃないの?」
〈ひっそりと咲くブルーポピー〉
2013年06月07日
アンナあとがき 本能
9月26日、C3を目指してダッチリブに取り付いた僕とNは、
前日に佐藤とシェルパが伸ばした終了点から、躊躇する事なく
トラバース気味に右上するルートを採った。傾斜約70度。
ヒマラヤ襞の間はボブスレーのルートのようになっていて、
滑落すれば300~400m位はそのルートを強制されそうだ。
Nから「ロープがうまく出ず、キンクした」と無線が入る。
短いが何とかピッチを切り、アンカーを作る。ロープを引くと、
キンクしたロープの固まりとともにNが登ってきた。
そこからは傾斜が強まり、約80度ある。凍っていればともかく、
「モナカ雪に砂糖をかけた」ようで悪く、入れ替わってリードしたNが
何回かトライするがとうとう諦めた。
バトンタッチしてそこを何とか突破すると、今度はクレパス帯となった。
乗っ越すとき足下が崩れたが、かろうじてスノーバーとピッケル、
そして左足の微妙な支持力で持ちこたえた。だましだましの登行。
緊張の連続と高所ゆえの乾燥によって喉はカラカラで、
ただただ、前に進む本能しかそこには無い。
全く真っ白な「無」の世界。そんな登攀が続き、
やがて紺碧の空が視界を占めるようになって、
僕はリッジ上に立った。喉からは、もう声も出ない。
帰国して少し落ち着いたある晩、いつものように晩酌しながら
そんな話をしていたところ、女房はこう言ってくれた。
「たった一つでもそんなクライミングができて良かったと思う」
困難を嬉しそうに喋っていた、昔のあの頃を思い出したように。
〈アンナ全景とダッチリブ(中央下)〉
前日に佐藤とシェルパが伸ばした終了点から、躊躇する事なく
トラバース気味に右上するルートを採った。傾斜約70度。
ヒマラヤ襞の間はボブスレーのルートのようになっていて、
滑落すれば300~400m位はそのルートを強制されそうだ。
Nから「ロープがうまく出ず、キンクした」と無線が入る。
短いが何とかピッチを切り、アンカーを作る。ロープを引くと、
キンクしたロープの固まりとともにNが登ってきた。
そこからは傾斜が強まり、約80度ある。凍っていればともかく、
「モナカ雪に砂糖をかけた」ようで悪く、入れ替わってリードしたNが
何回かトライするがとうとう諦めた。
バトンタッチしてそこを何とか突破すると、今度はクレパス帯となった。
乗っ越すとき足下が崩れたが、かろうじてスノーバーとピッケル、
そして左足の微妙な支持力で持ちこたえた。だましだましの登行。
緊張の連続と高所ゆえの乾燥によって喉はカラカラで、
ただただ、前に進む本能しかそこには無い。
全く真っ白な「無」の世界。そんな登攀が続き、
やがて紺碧の空が視界を占めるようになって、
僕はリッジ上に立った。喉からは、もう声も出ない。
帰国して少し落ち着いたある晩、いつものように晩酌しながら
そんな話をしていたところ、女房はこう言ってくれた。
「たった一つでもそんなクライミングができて良かったと思う」
困難を嬉しそうに喋っていた、昔のあの頃を思い出したように。
〈アンナ全景とダッチリブ(中央下)〉
2013年06月04日
アンナあとがき 行く者
2000年のアンナプルナに向かう直前、僕は1997年の事故を
振り返った。2ビバークの末ヘリコプターで救出された時、
救急車の中で女房がやっとの思いで言った「寒かったでしょう」
のひと言。「待つ者」のその気持ちを、死亡率9%という
この山に行くにあたって、もう一度捉え返しておきたかったのだ。
それまで一度も山登りに反対したことの無かった女房だが、
この遠征だけは「お世話係り」だとして、最初から反対していた。
「自分の登山をして欲しい」それが底辺にあった。そして
それが避けられぬと見て「登攀隊長の妻」を見事に演じてくれたのは
出発の年になってからだった。
僕が出発前の家族会議で「山での事故は自己責任」と訴えていた時、
最後に彼女がこう言った。「行く者にはもう一つ、待つ者への責任もある。
帰ってこなくてはいけない」
いつも僕の頭の中は行く事だけで一杯で、
「待つ者」へのそれについては一般論としての域を越えないものだった。
改めて思慮の足りなさを突きつけられた気がした。
小さい頃彼女は、ドッジボールをするとき必ずスカートの端を前に出し、
入りもしないボールをいつまでも待っていたという。
いつも「おいてきぼり」をくらわして、自分だけの世界を広げている自分。
ノロケではないが、遠征の度に「心配でしょう」と同情される彼女は
「適当に返事するけど、本当は待っているのが寂しいんだ」と言う。
事故、遠征といつも待たされる彼女。
僕はいつ、彼女のスカートにボールを入れてあげる事ができるのだろうか。
振り返った。2ビバークの末ヘリコプターで救出された時、
救急車の中で女房がやっとの思いで言った「寒かったでしょう」
のひと言。「待つ者」のその気持ちを、死亡率9%という
この山に行くにあたって、もう一度捉え返しておきたかったのだ。
それまで一度も山登りに反対したことの無かった女房だが、
この遠征だけは「お世話係り」だとして、最初から反対していた。
「自分の登山をして欲しい」それが底辺にあった。そして
それが避けられぬと見て「登攀隊長の妻」を見事に演じてくれたのは
出発の年になってからだった。
僕が出発前の家族会議で「山での事故は自己責任」と訴えていた時、
最後に彼女がこう言った。「行く者にはもう一つ、待つ者への責任もある。
帰ってこなくてはいけない」
いつも僕の頭の中は行く事だけで一杯で、
「待つ者」へのそれについては一般論としての域を越えないものだった。
改めて思慮の足りなさを突きつけられた気がした。
小さい頃彼女は、ドッジボールをするとき必ずスカートの端を前に出し、
入りもしないボールをいつまでも待っていたという。
いつも「おいてきぼり」をくらわして、自分だけの世界を広げている自分。
ノロケではないが、遠征の度に「心配でしょう」と同情される彼女は
「適当に返事するけど、本当は待っているのが寂しいんだ」と言う。
事故、遠征といつも待たされる彼女。
僕はいつ、彼女のスカートにボールを入れてあげる事ができるのだろうか。
2013年06月01日
アンナあとがき 人の繋がり
その千種の代表となった西村ともう一人、2011年に一緒に
アンナを目指したNは、今年残念ながら千種を去ってしまった。
人生はそれぞれの選択だから仕方ないとは思うが
山で、そしてヒマラヤで命を守りあったメンバーは一生の仲間。
だってヒマラヤでこれだけ消えていく命。
生きて還ってきたなんて、かけがえのない縁じゃないかと思う。
そうして見ると、いろんな別れを迫られるのがヒマラヤでもある。
その2011年のアンナで、まさに「別れ」を迫られたのが
ベースキャンプマネージャーNの高山病だった。
これについては2011/9/25付からのブログに載せているが
おおよそ命を守り合うほど崇高な、人間としての関係は無い。
そんなふうに登山を思えたら、仲間を大切に思う力は強くなり
山屋同士の絆はもっと深くもっと強くなるんじゃないだろうか。
そして仲間以外にもそんな目を向けられるのではないかと思う。
今、「お前の命は俺が守るぞ」なんて気持ちでロープを繋ぐ山屋は
少ないように思う。そんな防御の側面が軽んじられる傾向にあって
関係が薄っぺらいものになってはいないだろうか、と思う。
仲間を失えばこそ、仲間を大切にしたくなるものでもある。
時間が癒してくれるまで、残る記憶は喪失感を大きくする。
相手を大事に思えばこそ喪失感に打ちのめされるわけだが
それは逆に、生きていることの財産ではないか。
人を大事にできなければ山は登れない、とまで言わないが
山はそしてヒマラヤは、そんな人間を全て見ているように思える。
アンナを目指したNは、今年残念ながら千種を去ってしまった。
人生はそれぞれの選択だから仕方ないとは思うが
山で、そしてヒマラヤで命を守りあったメンバーは一生の仲間。
だってヒマラヤでこれだけ消えていく命。
生きて還ってきたなんて、かけがえのない縁じゃないかと思う。
そうして見ると、いろんな別れを迫られるのがヒマラヤでもある。
その2011年のアンナで、まさに「別れ」を迫られたのが
ベースキャンプマネージャーNの高山病だった。
これについては2011/9/25付からのブログに載せているが
おおよそ命を守り合うほど崇高な、人間としての関係は無い。
そんなふうに登山を思えたら、仲間を大切に思う力は強くなり
山屋同士の絆はもっと深くもっと強くなるんじゃないだろうか。
そして仲間以外にもそんな目を向けられるのではないかと思う。
今、「お前の命は俺が守るぞ」なんて気持ちでロープを繋ぐ山屋は
少ないように思う。そんな防御の側面が軽んじられる傾向にあって
関係が薄っぺらいものになってはいないだろうか、と思う。
仲間を失えばこそ、仲間を大切にしたくなるものでもある。
時間が癒してくれるまで、残る記憶は喪失感を大きくする。
相手を大事に思えばこそ喪失感に打ちのめされるわけだが
それは逆に、生きていることの財産ではないか。
人を大事にできなければ山は登れない、とまで言わないが
山はそしてヒマラヤは、そんな人間を全て見ているように思える。
2013年05月31日
アンナあとがき その後
話は少し戻るが、5~6日前までしばらく続けていたヒマラヤの話。
講演依頼を受けた時、スライド写真を電子データ化してもらった
こともあって、話の内容とダブらせて昔の遠征を紹介させていただいた。
写真を見ながら記録を振り返り、話の内容を考える作業はとても楽しく
ブログ記事もそれに連動しているから、あっという間の時間だった。
2000年のアンナプルナを、今は「喧嘩しようが何しようが生きて
帰ってこられたからそれでいいじゃないか」と思うことができる。
ブログを書きながら、時間が経つと思いも変化することに気づかされた。
そんな変化も僕が生きている証拠であり、必然なのだろう。
そのアンナプルナが終ってから、僕とSは密かにリベンジを計った。
まるで秘密結社の集会のように、名城公園西の(というのが暗い)
居酒屋に集まって、夏冬問わず何度夢を語り合ったことだろう。
彼はトヨタのトップセールス、奥さんと中学小学の息子・娘と暮らしていた。
2004年にその夢の実現を計画。しかし僕の娘の進学が重なって
隊長を彼に託し、参加しないことを決めたのは2003年の秋だったと思う。
「その代わりにもっとすごい人間を連れてくるから」と、約束したのが
当時、日本のヒマラヤニストの頂点にいた群馬の名塚だった。
そうして見送った2004年アンナプルナ遠征は、そのSと名塚を
雪崩で失うことになってしまった。残された千種の西村と春日井のYは
初遠征で隊長と登攀隊長を、それも目前で失う悲劇に見舞われたのだった。
〈アイスフォール横に作られたレリーフ〉

〈並んでアンナを見上げる名塚のレリーフ〉

そのYも、後のダウラギリ遠征で隊長田辺とともに逝ってしまった。
残った西村とは2011年、再度アンナプルナに行ったものの敗退。
彼は現在、千種アルパインクラブ5代目の代表を務めている。
講演依頼を受けた時、スライド写真を電子データ化してもらった
こともあって、話の内容とダブらせて昔の遠征を紹介させていただいた。
写真を見ながら記録を振り返り、話の内容を考える作業はとても楽しく
ブログ記事もそれに連動しているから、あっという間の時間だった。
2000年のアンナプルナを、今は「喧嘩しようが何しようが生きて
帰ってこられたからそれでいいじゃないか」と思うことができる。
ブログを書きながら、時間が経つと思いも変化することに気づかされた。
そんな変化も僕が生きている証拠であり、必然なのだろう。
そのアンナプルナが終ってから、僕とSは密かにリベンジを計った。
まるで秘密結社の集会のように、名城公園西の(というのが暗い)
居酒屋に集まって、夏冬問わず何度夢を語り合ったことだろう。
彼はトヨタのトップセールス、奥さんと中学小学の息子・娘と暮らしていた。
2004年にその夢の実現を計画。しかし僕の娘の進学が重なって
隊長を彼に託し、参加しないことを決めたのは2003年の秋だったと思う。
「その代わりにもっとすごい人間を連れてくるから」と、約束したのが
当時、日本のヒマラヤニストの頂点にいた群馬の名塚だった。
そうして見送った2004年アンナプルナ遠征は、そのSと名塚を
雪崩で失うことになってしまった。残された千種の西村と春日井のYは
初遠征で隊長と登攀隊長を、それも目前で失う悲劇に見舞われたのだった。
〈アイスフォール横に作られたレリーフ〉
〈並んでアンナを見上げる名塚のレリーフ〉
そのYも、後のダウラギリ遠征で隊長田辺とともに逝ってしまった。
残った西村とは2011年、再度アンナプルナに行ったものの敗退。
彼は現在、千種アルパインクラブ5代目の代表を務めている。
2013年05月29日
久しぶりに「谷川の怪人」
昨日の朝、ヒマラヤで日本人女性が雪崩に巻き込まれたとのニュースを見た。
ダウラギリ(8167m)には田辺と山本が眠っている。またダウラか・・・。
しばらくしたら「谷川の怪人」Kさんからショートメールが届いた。
何と雪崩で亡くなったのはKさんの身内のような人。そういえば
何回かその人の話を聞いたことがあった。どこかへ遠征に行くんだとも。
「メールっていいな。悲しいこともさらっと流して共有できる?でも誰かに
この気持ち分かって欲しいよ・・・」とのメールに「心痛お察しします」と送り、
後に電話で「山やるやつはバカだね~」と寂しげに笑う彼に
「今夜は僕も献杯しますよ」と言った。
詳細は分からないが、その女性以外に3人が巻き込まれているというし
23日、キャンプ3付近で疲労凍死したというシェルパ情報もある。
先日三浦さんがエベレストに登頂して、話題になっている。
ヘリで下山したのが登山と言えるかどうか論議になっているらしいが、
イモトのマッターホルンと違って最初からの計画ではないそうだから
まぎれもない「登山」だったと思う。(但し1億2千万のお金を掛けた)
前後して片足を失ったインド人女性がエベレストに登頂したらしいし
今度は三浦さんより一つ年上のネパール人、シェルチャン氏が
世界最高齢登頂の新記録に挑み、資金難で中止したという。
ベースキャンプに「バー」が出現する飽和状態のエベレスト。
あまり意味のない「競争」は、ぼちぼち止めたらどうだろうか。
「夢は諦めなければ叶う」とは三浦さんだが、夢に向かっていて
亡くなる方も大勢いるし、それだけのお金を掛けられない人がほとんど。
陽が射す世界と暗闇の世界の、何と近くで、違いの大きなことだろう。
〈66歳でダウラに眠った河野さんに捧ぐ〉
ダウラギリ(8167m)には田辺と山本が眠っている。またダウラか・・・。
しばらくしたら「谷川の怪人」Kさんからショートメールが届いた。
何と雪崩で亡くなったのはKさんの身内のような人。そういえば
何回かその人の話を聞いたことがあった。どこかへ遠征に行くんだとも。
「メールっていいな。悲しいこともさらっと流して共有できる?でも誰かに
この気持ち分かって欲しいよ・・・」とのメールに「心痛お察しします」と送り、
後に電話で「山やるやつはバカだね~」と寂しげに笑う彼に
「今夜は僕も献杯しますよ」と言った。
詳細は分からないが、その女性以外に3人が巻き込まれているというし
23日、キャンプ3付近で疲労凍死したというシェルパ情報もある。
先日三浦さんがエベレストに登頂して、話題になっている。
ヘリで下山したのが登山と言えるかどうか論議になっているらしいが、
イモトのマッターホルンと違って最初からの計画ではないそうだから
まぎれもない「登山」だったと思う。(但し1億2千万のお金を掛けた)
前後して片足を失ったインド人女性がエベレストに登頂したらしいし
今度は三浦さんより一つ年上のネパール人、シェルチャン氏が
世界最高齢登頂の新記録に挑み、資金難で中止したという。
ベースキャンプに「バー」が出現する飽和状態のエベレスト。
あまり意味のない「競争」は、ぼちぼち止めたらどうだろうか。
「夢は諦めなければ叶う」とは三浦さんだが、夢に向かっていて
亡くなる方も大勢いるし、それだけのお金を掛けられない人がほとんど。
陽が射す世界と暗闇の世界の、何と近くで、違いの大きなことだろう。
〈66歳でダウラに眠った河野さんに捧ぐ〉
2013年05月25日
「人生には他のアンナプルナがある」(エルツォーク)
「それ」をやらない者がどれだけ考えても分からないものの一つが
「より困難な」ものを求める山登りである事は間違いない。
「何故」と聞かれてもちょっと答える気にはならないから、
マロリーの「そこに在るから」は最も簡潔明瞭で哲学的だ。
実は彼も返答に困っていて、ある時ひらめいたのではないか。
僕のそんな山は、とてもレベルの低いところで自己満足を
追求しているのに過ぎない。それでも振りかえってみれば、
30歳を過ぎてから始めた程度の山で、よくここまでやりたい事をやり、
またチャンスに恵まれたものだなあと思う。
「世界最悪の旅」の中に「探検とは知的好奇心の肉体的表現である。」
とある。僕の「可能性」の広がりも、そんな好奇心や情熱を持って
山に関するいろんな場所や機会に飛び込み、
そんな中で諸先輩に恵まれ可愛がっていただいた結果だと思う。
チャンスもそれを掴むのも、全て人との関係の中にあった。
それを内面的に可能たらしめたものは、あこがれであり感動だった。
奇しくも今回の隊長、石川さんと登ったマナスルが最後となった
故・小西政継氏。氏の“厳しいほど、また困難であるほど「ニャッ」とする”
といったいわゆる「小西イズム」はかっこ良かったし、
森田勝氏がグランドジョラスで見せた生還のための死闘は、
まさに男の生き様を感じさせた。
そういったものに価値観を見出した僕は、誰もが昔、侍に憧れて
棒っきれを脇に差したように、「それ」に近づいて行った。
これからの僕の「他のアンナプルナ」は、どんな脇差しなのだろうか。
「より困難な」ものを求める山登りである事は間違いない。
「何故」と聞かれてもちょっと答える気にはならないから、
マロリーの「そこに在るから」は最も簡潔明瞭で哲学的だ。
実は彼も返答に困っていて、ある時ひらめいたのではないか。
僕のそんな山は、とてもレベルの低いところで自己満足を
追求しているのに過ぎない。それでも振りかえってみれば、
30歳を過ぎてから始めた程度の山で、よくここまでやりたい事をやり、
またチャンスに恵まれたものだなあと思う。
「世界最悪の旅」の中に「探検とは知的好奇心の肉体的表現である。」
とある。僕の「可能性」の広がりも、そんな好奇心や情熱を持って
山に関するいろんな場所や機会に飛び込み、
そんな中で諸先輩に恵まれ可愛がっていただいた結果だと思う。
チャンスもそれを掴むのも、全て人との関係の中にあった。
それを内面的に可能たらしめたものは、あこがれであり感動だった。
奇しくも今回の隊長、石川さんと登ったマナスルが最後となった
故・小西政継氏。氏の“厳しいほど、また困難であるほど「ニャッ」とする”
といったいわゆる「小西イズム」はかっこ良かったし、
森田勝氏がグランドジョラスで見せた生還のための死闘は、
まさに男の生き様を感じさせた。
そういったものに価値観を見出した僕は、誰もが昔、侍に憧れて
棒っきれを脇に差したように、「それ」に近づいて行った。
これからの僕の「他のアンナプルナ」は、どんな脇差しなのだろうか。
2013年05月24日
アンナプルナ 夢を持って
リーダーズシップとメンバーズシップ、そしてチームワークが
最後までうまく行かない登山隊だったと思う。
日本での冬山経験が乏しかったり、厳しい登攀の経験もないメンバーが
集まったのでは、それはそもそも「ヒマラヤ講習会」とでも言う他無い。
僕は人間関係の醜さを隊に、従ってヒマラヤに持ち込みたくなかった。
しかしそんな偽りやごまかしが、神々の座を前に通用するはずもない。
どんなに隠そうが赤裸々に暴かれてしまうのが常。
いつも、偉大な自然は人間の小ささを教えてくれる。
我々は、この遠征での全ての醜い部分を自らの責任として振り返り
反省しなくては、今後もきっとろくな山がやれないだろうと思う。
夢を持って生きる事の何と素晴らしい事か、しかし自己実現を
勝ち取るためには自分を創っていかねばならない。
その苦闘抜きにそれはあり得ないという事であろう。
力のないメンバーが集まってしまう可能性が高い「岳連隊」として、
アンナプルナはレベルが高すぎる山であった。
しかし力に見合った登山、という堅実なものも大切であろうが
時にはこんな「はみ出し登山」も良いのではないだろうか。
はみ出した事のない人間なんてつまらない。無事故だったからこそ
言える事ではあるが、所詮登山は自分への冒険である。
どう自分を振り返る事ができるかの繰り返し。
「登頂を目指した光栄と感動」、皆にはそんな財産を大切にして欲しい。
夢を持って前に進むこと、そしてそれを実現するために
どんどん力をつけていって欲しい。ただそう願うばかりだ。
〈2011年BC(4000m)からのアンナプルナ〉
最後までうまく行かない登山隊だったと思う。
日本での冬山経験が乏しかったり、厳しい登攀の経験もないメンバーが
集まったのでは、それはそもそも「ヒマラヤ講習会」とでも言う他無い。
僕は人間関係の醜さを隊に、従ってヒマラヤに持ち込みたくなかった。
しかしそんな偽りやごまかしが、神々の座を前に通用するはずもない。
どんなに隠そうが赤裸々に暴かれてしまうのが常。
いつも、偉大な自然は人間の小ささを教えてくれる。
我々は、この遠征での全ての醜い部分を自らの責任として振り返り
反省しなくては、今後もきっとろくな山がやれないだろうと思う。
夢を持って生きる事の何と素晴らしい事か、しかし自己実現を
勝ち取るためには自分を創っていかねばならない。
その苦闘抜きにそれはあり得ないという事であろう。
力のないメンバーが集まってしまう可能性が高い「岳連隊」として、
アンナプルナはレベルが高すぎる山であった。
しかし力に見合った登山、という堅実なものも大切であろうが
時にはこんな「はみ出し登山」も良いのではないだろうか。
はみ出した事のない人間なんてつまらない。無事故だったからこそ
言える事ではあるが、所詮登山は自分への冒険である。
どう自分を振り返る事ができるかの繰り返し。
「登頂を目指した光栄と感動」、皆にはそんな財産を大切にして欲しい。
夢を持って前に進むこと、そしてそれを実現するために
どんどん力をつけていって欲しい。ただそう願うばかりだ。
〈2011年BC(4000m)からのアンナプルナ〉
2013年05月23日
アンナプルナ またスタートできる
岳連ニュース(2000年新年号)に「彼我の力関係を見れば、
成功率は極めて低いと言わざるを得ない。しかし、だからと言って
諦めたりはしない。困難であればあるほどその困難に立ち向かえる
自分たちを創っていく、それが最も重要なこと(後略)」と書いた。
そしてそれに向かって、皆で精一杯やってきたつもりである。
しかし高所の経験者が2人、それ以外は未経験者という隊では
残念ながらシェルパに依存せざるを得ず、そんな隊がシェルパに
ソッポをむかれた、というのが我々の第一の敗因だったと思う。
そして二つ目に、登山期間が短くなった事が上げられる。
もともと10月15日に登山終了という計画だったが、遅くとも8日頃には
ヘリを要請する必要があった。それに電話連絡ができるところまで
最低2日はかかり、それを見越してメールランナーを走らせなければ
ならなかったから、登山活動が10日ほど短くなったわけである。
そして第三に、午後になると毎日のように降った雪。
アンナプルナ山群がヒマラヤのどこより雪が多い、とは聞いていたものの、
モンスーンが明けても降る雪に当然雪崩対策のレストも多くなった。
アンナプルナⅠ峰北面に安全なところは全く無いと言っても過言ではない。
エベレストに何回も登ったシェルパが尻込みするこの山から帰って、
僕は心から全員の無事を喜んでいる。
例えチームワークが壊れようが喧嘩しようが
夫々が、またスタートを切る事ができるという意味の重さは果てしない。
そしてそんなアンナプルナに、先人達の偉大な足跡をたどって
登頂を目指した光栄とさまざまな感動が、一人ひとりの心の中にあるはずだ。
〈ヒマラヤには可憐な花がよく似合う〉
成功率は極めて低いと言わざるを得ない。しかし、だからと言って
諦めたりはしない。困難であればあるほどその困難に立ち向かえる
自分たちを創っていく、それが最も重要なこと(後略)」と書いた。
そしてそれに向かって、皆で精一杯やってきたつもりである。
しかし高所の経験者が2人、それ以外は未経験者という隊では
残念ながらシェルパに依存せざるを得ず、そんな隊がシェルパに
ソッポをむかれた、というのが我々の第一の敗因だったと思う。
そして二つ目に、登山期間が短くなった事が上げられる。
もともと10月15日に登山終了という計画だったが、遅くとも8日頃には
ヘリを要請する必要があった。それに電話連絡ができるところまで
最低2日はかかり、それを見越してメールランナーを走らせなければ
ならなかったから、登山活動が10日ほど短くなったわけである。
そして第三に、午後になると毎日のように降った雪。
アンナプルナ山群がヒマラヤのどこより雪が多い、とは聞いていたものの、
モンスーンが明けても降る雪に当然雪崩対策のレストも多くなった。
アンナプルナⅠ峰北面に安全なところは全く無いと言っても過言ではない。
エベレストに何回も登ったシェルパが尻込みするこの山から帰って、
僕は心から全員の無事を喜んでいる。
例えチームワークが壊れようが喧嘩しようが
夫々が、またスタートを切る事ができるという意味の重さは果てしない。
そしてそんなアンナプルナに、先人達の偉大な足跡をたどって
登頂を目指した光栄とさまざまな感動が、一人ひとりの心の中にあるはずだ。
〈ヒマラヤには可憐な花がよく似合う〉