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2013年01月31日
「ぼくを探しに」
一昨日、安曇野ちひろ美術館のことを書いたが、
娘(なお美・当時中2)の夏休みの自由研究に付き合って
家族で安曇野の美術館めぐりに行ったことがある。
その時、ジャンセン美術館だったかにあった「にじいろのさかな」
の絵葉書を、娘が知っていたばかりかそれを好きだったことに驚いた、
なんて話になった。
女房はその時、「この子、なかなか鋭いものを持ってるな」
なんて思ったらしい。
そしてその後、娘は「ぼくを探しに」(シルヴァスタイン作)、
「続ぼくを探しに ビック・オーとの出会い」(同)と文字通り出会い、
後にロスに出かけた際、原語のそれを自分のお土産に
買ってきたのだった。
昨日、倉橋由美子訳のその2冊を読んでみた。
「不完全な自分でもいいんだ」と訴えるような、
とてもシンプルなその絵本の訳者あとがきには
「大人の大部分はうまく大人のふりをしていけるようになった子供か、
それがうまくできないでいる子供か、そのいずれかであって、
文学の中にはもっぱらこの子供の方に訴える型のものがある。
その種のものは大人が読むための童話である」とあり、
続けてアメリカ人は日本人と違って自分の「子供性」を鋭く意識している
からシルヴァスタインの人気が高いのかもしれないとあった。
自分の中の子供を意識する、すっかり大人になったつもりの大人には
確かに難しいことなのかもしれない。
娘(なお美・当時中2)の夏休みの自由研究に付き合って
家族で安曇野の美術館めぐりに行ったことがある。
その時、ジャンセン美術館だったかにあった「にじいろのさかな」
の絵葉書を、娘が知っていたばかりかそれを好きだったことに驚いた、
なんて話になった。
女房はその時、「この子、なかなか鋭いものを持ってるな」
なんて思ったらしい。
そしてその後、娘は「ぼくを探しに」(シルヴァスタイン作)、
「続ぼくを探しに ビック・オーとの出会い」(同)と文字通り出会い、
後にロスに出かけた際、原語のそれを自分のお土産に
買ってきたのだった。
昨日、倉橋由美子訳のその2冊を読んでみた。
「不完全な自分でもいいんだ」と訴えるような、
とてもシンプルなその絵本の訳者あとがきには
「大人の大部分はうまく大人のふりをしていけるようになった子供か、
それがうまくできないでいる子供か、そのいずれかであって、
文学の中にはもっぱらこの子供の方に訴える型のものがある。
その種のものは大人が読むための童話である」とあり、
続けてアメリカ人は日本人と違って自分の「子供性」を鋭く意識している
からシルヴァスタインの人気が高いのかもしれないとあった。
自分の中の子供を意識する、すっかり大人になったつもりの大人には
確かに難しいことなのかもしれない。
Posted by ラテルネ瀧根 at 06:31│Comments(0)
│雑感