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2013年03月12日

美術館で

主催者の降矢奈々さんと親しくさせて頂いている息子の作品は
「想像された想像するものが想像する」という題だった。

昨日も書いたようにサミュエル・ベケット『伴侶』より
「すべてを自分の伴侶として想像する、想像された、想像するもの」
に導かれた作品だとのことで
「一刻も早い復興を願っている」とのメッセージが添えてあった。

芸術の「げ」の字も分からないぼくは
鑑賞するにあたって心を開いて素直に感じる他なく、そして
対話の軸は“制作に駆り立てたものや苦悩は何か”だった。

それはただそれに触れるためではなく、自分の向き合うべきもの
を探るひとつの好奇心。多分、奥行の距離を探るのでなく
~もちろん距離を探る能力がないからなのだろうが~
奥行を感じて、自分のそれを推し量る物差しにするような
そんなものだったろうか。それすら想像なのかもしれない。

いつものことではあるが、何を表現しているのかは分からない。
それは関節のようであったり石や貝の結晶のようだったりもする。
それがくっついていたり離れていたり。
得体の知れないパーツの集合と離散は人を表現しているのか。

まさに想像させられるものであり、何を想像するのかがその作品に
見られているような気がする、と言うと大げさだろうか。
すれ違いであるにしても、少しは対話ができたような気がしたのだった。

浮かんできたのは「花は咲く」の「私は何を残しただろう」
何を残すか、それは自分がどう生きるかだ。ぼんやりそう思った。

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Posted by ラテルネ瀧根 at 06:59│Comments(0)雑感
 
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