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2011年08月15日
リーダー責任
僕が声を掛けなければチームは無かった。
だからやっぱり何かあったらその責任は僕にある。
山へ行くのに誘い合うのはごく普通の事で、
何かあった時のリーダー責任も当たり前の時代。
トムラウシのようなツアー登山、ガイド登山はなお更だ。
しかし普通の登山では、
「山での事故は自分持ち」というのがその前提となっているから
余程の事がないとリーダー責任というところまで行かないのが普通。
それがリスクの高い、ヒマラヤ登山の場合はどうなのか。
本人は「自己責任」と、いたって単純明快でも
家族は違う、山屋ではないのだ。
遺体すら回収できない可能性があるところで
ある日突然いなくなっても納得できる訳がない。
今更ではあるが、そういった当たり前の「普通」を超越したところに
ヒマラヤはあるという事なのだろう。
個々の、普段の家族対策がキーとなってくる。
しかし、必ずしも「万全」はあり得ないものだとも思う。
今まで神は、僕の登山ではそうした試練をお与えにならなかった。
だが、今回もそうだという保証は決してない。
きっと今回も、不安なまま出発を迎えてしまうのだろう。
僕には背負う事しかできない。
それでもやりたいのだ、それでも行きたいのだと叫びたい。
どうしようもないそんな思いが、ただ痛い。
渇望、それは苦しみを持つものでもあり
誰でもそうなのだろうが
「自分」であり続ける事は常に苦しみや葛藤を伴っている。
だからやっぱり何かあったらその責任は僕にある。
山へ行くのに誘い合うのはごく普通の事で、
何かあった時のリーダー責任も当たり前の時代。
トムラウシのようなツアー登山、ガイド登山はなお更だ。
しかし普通の登山では、
「山での事故は自分持ち」というのがその前提となっているから
余程の事がないとリーダー責任というところまで行かないのが普通。
それがリスクの高い、ヒマラヤ登山の場合はどうなのか。
本人は「自己責任」と、いたって単純明快でも
家族は違う、山屋ではないのだ。
遺体すら回収できない可能性があるところで
ある日突然いなくなっても納得できる訳がない。
今更ではあるが、そういった当たり前の「普通」を超越したところに
ヒマラヤはあるという事なのだろう。
個々の、普段の家族対策がキーとなってくる。
しかし、必ずしも「万全」はあり得ないものだとも思う。
今まで神は、僕の登山ではそうした試練をお与えにならなかった。
だが、今回もそうだという保証は決してない。
きっと今回も、不安なまま出発を迎えてしまうのだろう。
僕には背負う事しかできない。
それでもやりたいのだ、それでも行きたいのだと叫びたい。
どうしようもないそんな思いが、ただ痛い。
渇望、それは苦しみを持つものでもあり
誰でもそうなのだろうが
「自分」であり続ける事は常に苦しみや葛藤を伴っている。
Posted by ラテルネ瀧根 at 06:38│Comments(0)
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